Company 三洋堂物語
「三洋堂物語」は、1907年から2006年までの三洋堂の歴史を物語にした、
三洋堂百周年記念誌(2006年12月発行)を再編集したものです。
創成・再建期 1907年~1953年
第1話 始まりは横浜の「丸山兄弟商会」
第2話 「丸山兄弟商会」を「三洋堂」に改称
1921(大正10)年、権一郎が経営する横浜の「丸山兄弟商会」が、東京市本郷区駒込動坂町に移転した。同時に店名を「三洋堂」と改称する。権一郎の店が鞄や袋物の小売りのほか、諸官庁や大学、企業等を対象に海外渡航用品を販売し始めたのはこのときからである。
成果はさっそく表れ、同年、早くもワシントン軍縮会議全権団の渡航支度すべてを調達している。その後も、1930(昭和5)年のロンドン軍縮会議全権団、1932(昭和7)年のジュネーブ軍縮会議全権団の渡航支度なども受注しているが、これらはすべて、神田の三洋堂と協力・連携して支度にあたった。このころから「海外渡航なら三洋堂」と定評をいただくことになる。
1939(昭和14)年、港区新橋に店舗を新設し本店とする。当時は東京市芝区田村町であった。本来なら銀座に出店するのが理想であったが、地代等費用面で困難があり、隣の新橋で外堀通りに面した秋葉ガラス店を居抜きで安く借り出店を果たした。この新橋出店は、特に戦後、経営上おおきなメリットをもたらした。
昭和に入ると軍部が台頭し、渡航者の大半を軍部関係者が占めるようになった。そして太平洋戦争に入ると、一般渡航者はほとんど途絶。のちに二代目社長となる丸山正吉は、太平洋戦争が勃発した1941(昭和16)年、学徒動員により近衛歩兵第四連隊に入隊している。
1938(昭和13)年からは、戦争の長期化を背景に皮革の統制が行われた。この統制は戦後も継続され、鞄や袋物関係の製造が困難な時期が続いた。
第3話 戦後の混乱期
1945(昭和20)年8月15日終戦、東京は空襲で焼け野原と化していた。霞が関の官庁街や赤坂見附の交差点、四谷の坂までが、新橋駅から見渡せるほどであった。当初の新橋本店も焼け落ちたが、初代社長の権一郎は終戦から約半年後の1946(昭和21)年春、早くも店舗の再建に取りかかり、前面が店舗、奥が住宅という2階建て木造建築を建てた。
間口2間(けん)、奥行き6間という小さなものであったが、バラックやテントばかりの周辺では初めての本格的な建物だった。この建物があったため外堀通りは拡張や区画整理を免れ、区画や所有者の権利が戦前のまま保たれたと近隣の商店から感謝された。
1946(昭和25)年1月、皮革の統制がようやく解除された。これを受け、1951(昭和26)年、組織の近代化を図り資本金100万円の株式会社三洋堂を発足するとともに、外商部門を設立した。
外商部門はデパートの法人外商部のように企業や官公庁などに記念品や販売促進グッズなどを企画、製造する部門である。戦後日本は連合国軍の占領下におかれ、海外に渡航する者は稀少であった。情勢が安定し海外渡航支度業務を再開するまでは、この外商部門や一般的な鞄の小売りが当社業務の中心だったのである。
鞄類の製作に関してはこのころ、ロサンゼルスの全米水泳選手権に招待された古橋廣之進選手をはじめ日本チームのアルミトランクや、マッカーサー元帥のパスポートケース、サンフランシスコ講和条約調印時に批准書収納ケースなどを手がけている。
アルミトランクと「フジヤマのトビウオ」、南極観測隊
アルミトランクと「フジヤマのトビウオ」、
南極観測隊
第一次南極観測隊が使用した収納用トランク
1949(昭和24)年8月、ロサンゼルスの全米水泳選手権に日本の選手団が招待された。その数カ月前まで日本水泳連盟は国際水泳連盟への復帰が認められていなかったため、古橋廣之進選手、橋爪四郎選手らが世界新記録を次々に更新していたにもかかわらず、前年のロンドンオリンピックに参加できていなかった。そんな状況が一変、晴れて国際試合に招待されたものであるから、国民の期待は大きなものであった。
日本選手団の初の海外遠征は、船による渡航であった。この一行のアルミ製トランクを当社は製作している。古橋選手が静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市)出身で、二代目社長の丸山正吉の実弟かつ当社役員であった内山精一と旧制中学、大学を通して同級生であったことなどのご縁もあって、ご注文いただいたのである。ロサンゼルスの全米選手権で、古橋選手は4種目で世界新記録を打ち立てて優勝するというすばらしい結果を残した。
だが一方で、アルミ製トランクには問題が発生。船旅で潮風にあたってトランクの表面が腐食し、真っ白く塩をふいてしまったのである。そこで潮風に腐食しないよう、アルマイトによる表面加工をアルミ会社とともに開発し、改良型のアルミ製トランクを作り上げた。そして、これが次なる受注につながった。
1956(昭和31)年の第一次南極観測隊の装備用トランク、及び極地用特殊ケースに選ばれたのである。文部省の指定で製作し、納入した当社のトランクとケースは、5カ月以上にわたる過酷な旅を無事に耐え抜いたことで、以後の観測隊でも継続して使用されることになった。
拡大・発展期 1954年~現在
第1話 渡航支援業務の再開
第2話 海外渡航自由化を迎えて
1964(昭和39)年、海外観光渡航が自由化された。ただし1人年1回、持ち出し外貨500USドル(当時で約18万円)の制限付きであった。サラリーマンの月収が2~3万円の時代に、ハワイ8泊10日旅行が36万4000円という高額ではあったが、海外旅行は誰にでも手の届き得る存在になったのだ。
この前年である1963(昭和38)年には、スーツケース用の画期的「特許錠前」を開発。この業績が認められ東京オリンピックにおいて、聖火を輸送する特殊内装付きポータブルケースを製作、納入した。
東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年は、渡航者が爆発的に増加し約13万人に上り、海外旅行の大衆化時代を予感させた。翌1965(昭和40)年1月、日本航空が「ジャルパック」を発売。1970(昭和45)年には、海外渡航者は100万人の大台に乗った。
当社ではこのころから海外土産品販売に力を入れ始める。土産品の売り上げが年々増加し、旅行用品を扱う店や百貨店の専門売り場が増えて競争は激化していたからである。渡航支度一切を任せる渡航者が減りつつあったのも背景の一つだ。
海外旅行の大衆化を背景に、この時期にはテレビ番組を通しての宣伝活動も意欲的に行った。たとえば一般人参加型の人気トーク番組に、出場者への記念品として当社のオリジナルトランクなどを提供した。
1974(昭和49)年、新橋本店所在地に地上9階建ての三洋堂本館ビルを新築。また旅行者の増加や旅行先の多様化を受け、昭和50年代より本格的に全国への店舗展開を開始した。1986(昭和61)年、渡航者が500万人を突破。この年に三代目社長に丸山剛が就任した。
第3話 新しい販路の確立
事業環境の変化に応じ、新しい販路の確立が強く求められた時代に新たに開拓した販路は以下のとおりである。
第1に旅行中の販売。たとえば伊藤忠商事と組み、ユナイテッド航空と提携し機内で販売する、海外免税店と提携し来店客に販売する。あるいは現地ガイドと提携し、旅行中に店に案内させる場合もある。この場合、当社スタッフを現地に駐在させていることもあるが、大半は提携会社のスタッフが販売している。旅行中の販売という手法は団体、個人を問わず有効で大きく売り上げを伸ばしている。
第2にインターネット上での販売である。当社では1997(平成9)年から、インターネット上ショッピングモール「楽天市場」の開設と同時に出店し、海外土産や旅行用品を販売。順調に売り上げを伸ばしている。
第3に旅行業界以外での展開である。2001(平成13)年9月11日のアメリカ同時多発テロ以来、新型肺炎SARS、イラク戦争、各地爆弾テロなどの外的要因で海外旅行業界は大打撃を受けた。当社もそのあおりを全面的に受け、主力販路の売り上げが大きく落ち込んだ。
そこで
特別販売チームを編成し、海外旅行業界が打撃を受けてもその影響を受けない販路の確立に取り組んだ。その結果、現在では通販会社やカタログギフト会社への商品の卸販売をはじめ、各種組合や企業などでの会員販売など、多種多様な展開が実現している。
三洋堂創業100周年記念オリジナルスーツケースSUNTEX CEO
東京オリンピック聖火ケース
東京オリンピック聖火運搬用ケース
1963(昭和38)年に開発した特許錠前が連れてきた思わぬ注文が、東京オリンピックの聖火運搬用ケースであった。純国産で信頼性の高いトランクを作っている会社だというので、東京オリンピック組織委員会からご指名をいただいたのである。
赤坂の迎賓館内に設けられた組織委員会では、たとえば聖火関係だけでもマルマン(ライター)や日本石油(灯油)や日本冶金(トーチ)など、関連する多種多様な企業の方たちが出向していた。そういった方々と相談を重ね、特殊装置付きポータブルケース4個を製作し、納入した。
これらのうち1個が聖火をアテネから東京まで空輸し、4個全部を使い全国4カ所へ分火し、聖火を東京ヘリレーしたのである。途中で消しては大変なことなので、飛行機内にも持ち込めるようできるだけコンパクトに仕上げた。
開会式当日、聖火は聖火台に無事点火され、当社のケースは立派に大役を果たした。当時の担当者である高林郁雄によると、とにかく無事に聖火を運ぶことで頭がいっぱいで、歴史的事業に立ち会っている感慨に耽る暇などまるでなかったという。ちなみに開会式の入場行進曲「オリンピック・マーチ」を作曲した小関裕而さんと、開会式のテレビ実況中継を担当したNHKアナウンサーの北出清五郎さんが当社のお得意様だったことは不思議なご縁であった。
のちに当社は4個の聖火ケースのうち、アテネから聖火を運ぶのに使われたケースと、中のトーチ等一式を、東京オリンピック組織委員会より、表彰状とともに記念にいただくことになる。それから40年後の2004年、アテネオリンピックが開催されたオリンピックイヤーに、テレビの鑑定バラエティ番組にこのポータブルケースを出品したところ、鑑定金額は200万円。しかもこれはオークションなどにおける開始金額であり、実際の価値はもっと高いのではないか、との鑑定であった。2020年には日本オリンピックミュージアムでの展示に協力させていただくこととなった。